のっぺらぼうと三四郎

のっぺらぼうと三四郎。

 

 

 

 私は山崎千尋、人は私をのっぺらぼうと呼ぶ。この間の誕生日のお祝いの時に立っていたろうそくの数から考えても産まれてから十年程経ってはいるようだが、私は一度も自らの力で歩いたことが無い。歩くどころか私は全身麻痺という状態らしい。何でも生まれた時に胎盤から伸びた臍帯(さいたい)が私の首に巻き付き、脳に深刻なダメージを与えたらしい。お蔭でほぼ寝たきり、たまに母が車椅子で散歩に連れていってくれるが、私は座った姿勢を維持出来ないので、母は私を紐の様な物で椅子に縛り付ける。縛られる行為は不快だが、このたまの散歩は勿論私にとっては至福の時と言える。ただ、その私が楽しみに感じているこの散歩という行事に対する私の感想、いや喜びともいう感情が母に伝わらないのがもどかしい、でも母は返事も感想も言えない私に一生懸命、あの公園の桜が綺麗ねとか話しかけてくれる。実際に毎年桜の季節、特に庭に植えてある多種多様な芝桜が私は大好きで、今では品種も色々覚えている。これも母が私に話しかけてくれたからだ。

 

 

 

私は、この芝桜が好きな事、散歩に連れていってくれることに対する感謝の思い、それらがいつか伝われと精一杯、有難う聞こえているよと念じて答えている。ただ残念ながら意思の疎通が図れたことは一度も無い。十歳の子供が無い知恵をいくら絞っても私は感謝どころか体の痒み一つすら伝えられず悶々としている始末だ。ところで何故私がのっぺらぼうと呼ばれるか、そろそろ分かってきただろうか?今日も近所の公園に行ってきた。小金井公園というのだが、本当に広大な敷地に多くの自然を装うかのように人の手によって樹木が植えられている。ただし中に入ってしまえば、中を散歩する人、まるでネズミの様に園内を自転車で周回する人、そして犬を連れて散歩する人。各々のペースで歩き、自然モドキを楽しんでいる。そんな私も例外なく、この公園に連れて行ってくれるのを心待ちにしている一人だ。ただし一部散歩は苦痛も伴う。

 

 

 

「あ、今日は、久しぶりにのっぺらぼうが来たぞ。」

 

 

 

「やめなさい。あの人にだってきっと感情あるのよ。自分がそんな事言われたら辛いでしょ?」

 

 

 

「う、うん。分かった。」

 

 

 

(よし、その通りだ、私は君の言葉で傷ついているよ。お母さんナイスフォローだ。)

 

 

 

こんな時決まって、私の母はこう言ってフォローしてくれる。

 

 

 

「あの子も悪気はないの、気にしちゃだめよ。」

 

 

 

(うん、分かったよ。あの子ももう少し大きくなれば分かるさ。)

 

 

 

 母、瑞樹は私を産む前は仕事をしていたが、私が産まれてからは私にかかりっきりで面倒をみていてくれる。少なくとも母はその介護を面倒だと感じていないと私に信じさせてくれるだけの愛情を注いでくれている。こんな人に母になってもらって私は本当に幸せだ。

 

 

 

家に帰るとお父さんが今日はいつもより早く帰宅していた。

 

 

 

「あらあなた、今日は早かったのね。」

 

 

 

「うん、今日は滑走路が途中で使えなくなって、最近は帰りが遅い日が多かったろ?だから早く帰してくれたよ。また公園に行ってたの?」

 

 

 

と父は背広を脱ぎながら一日の報告を始めていた。母は手際よくそのジャケットに防臭スプレーを吹きかけハンガーにつるした。

 

 

 

(お父さん、今日は紅葉が綺麗だったよ。)

 

 

 

「千尋は変わりないかい?」

 

 

 

「ええ、今日ものっぺらぼう呼ばわりされたけど、でも千尋には私から言っておいたわ。」

 

 

 

(お母さん、ありがと。)

 

 

 

「千尋、気にするなよ。お前に表情が無いからってお父さんもお母さんもお前を人形だなんてこれはっぽっちも思ってない。だから心配するな。俺はお前の顔を見ているだけで幸せだよ。」

 

 

 

(お父さん、私もだよ。)

 

 

 

父は航空自衛隊で横田基地の輸送機パイロットをしている。自衛官だが戦闘経験がないのがお父さんの自慢だ、が口癖で晩酌していると三日に1回は口をついて出る。そんな父を私も誇りに思っている。

 

 

 

私は山崎家の一人っ子、それがこんな形でお礼も文句も言えない子供だなんて、私は申し訳なく思うけど、それでもこの十年間必死で支えてくれる両親に私は感謝しかない。一人っ子と言ったけど、でも山崎家の家族はもう一人いる。それが三四郎、雄の三毛猫だ。

 

 

 

(おい千尋、少し寒いから膝借りるぞ。)

 

 

 

と言うなり三四郎は車いすに縛り付けられている私の膝の上に飛び乗った。

 

 

 

「なんだ、三四郎は本当に千尋が好きだな~。」

 

 

 

(お父さん違うよ。確かに私と三四郎は仲良しだけど、今膝の上に来たのは寒いから、それ以上でも以下でもないよ。)

 

 

 

(ま、いいじゃないか、父上はいつもおいらの行動を好意的に解釈してくれる。それは居候的には有難いんだから。)

 

 

 

と三四郎は毛づくろいしながら呟いた。

 

 

 

そう三四郎と私はこうして、いつも頭の中で会話をしている。聞きかじった言葉で言えばテレパシーというらしい。三四郎は今自称十一歳だと言っている。確かに私が産まれて、物心がついた時には既にこの家の主のように自由自在に部屋から部屋へ移動していたし、三四郎は体温が高く、特に寝返りをうつ訳でもない幼少期の私の体を湯たんぽだとしか思っていなかったようだ。

 

 

 

(そうさ、赤ちゃんの時の千尋の方が温かかったぜ。)

 

 

 

(ね、三四郎、私たちが初めてこうして会話した時のこと覚えてる?あの時のあなたの顔を今でも鮮明に覚えているわ)

 

 

 

両親は私の膝の上でご満悦な三四郎を見て、しばらく放っておこうと観念したらしい。居間のソファーに座りワイドショーを最近買った大画面テレビで見ている。このテレビが私の記憶が正しければ3台目、かなりのハイペースで買い替えている。父の趣味の映画鑑賞が大義名分で買い替える度に大画面化しているが、一番恩恵を受けているのはアメリカの連続ドラマ好きの母だと私はしっている。今日はお父さんが早上がりなので、さぞや昨日よいところで終わったドラマを気にしている筈だが微塵もその気配を感じさせずに二人でワイドショーを見ていた。

 

私は、これから本来は退屈な時間帯になるのだが、文句を言っては可哀想だ、母は朝からずっと私の世話をしていたのだから。もっとも文句は言いようがないのだが。そこで私は三四郎との会話を楽しむことにしたのだ。

 

 

 

(勿論覚えているさ、おいらは幽霊の類は良くみるし、そいつに話しかけられることもたまにはあるから、どこからともなく声がするなんて驚くに値しないさ。でもな、大概の幽霊はおいらを三四郎とは呼ばないさ。大概少し低いトーンで、ねぇ って声かけられるのが相場なのさ。そこへ来て、突然、三四郎私の声聞こえる?って話かけられりゃ、そりゃ観音様だって驚くぜ。)

 

 

 

(私だって一か八かだったけど、何しろ一人の世界で自己完結するって長く続けると結構応えるわよ。だからせめてあなたにお友達になってもらえないかな?って思ったのがきっかけだったのよ。)

 

 

 

三四郎は毛づくろいを止めて私の右膝の上に顎を乗せて目を閉じた。知らない人がみればただの昼寝中の猫だろう。

 

 

 

(あんときはおいらも訳分からないから、本当にお前が話し掛けているのか?って何度も確認したよな?)

 

 

 

(本当、猫で面喰うってあるのね?ってびっくりしたわ、猫の癖に鳩が豆鉄砲を食ったような顔だったわよ。)

 

 

 

(千尋、猫に鳩のたとえは上手くねぇな~。でも驚いたのは間違いないな、だってお前に感情なんてなくて、ただそこに在る物としてしか思ってなかったからな。ただ温かい置物と一緒だと思ってたよ。)

 

 

 

(私は結構早くにあなたの心の声は聞こえていたの、たいがいは飼い主様に対する愚痴だったけどね。)

 

 

 

(ま~そういうなよ。余りにもこちらの気持ちが伝わらなければ愚痴の一つや二つ言いたくなるさ。)

 

 

 

(そうね、私ももどかしいと思う時あるかな、でもそれも慣れたけど、なんであなたには意思が通じて、人間には通じないのかしら?)

 

 

 

(さぁな、ただおいらが思うのは、昔は人間もしゃべらずとも相手の思いが分かるなんて技能は持っていたんじゃないかい?それを言葉なんて便利な物を発明しちゃうから、必要な筈の念話というスキルは廃れていったのさ、猫なら誰だって一言も声を発しなくとも相手の気持ちは分かるさ、言葉以外にも人間は便利な物を発明する度に大切な何かを忘れていってやしないかい?父上の大好きなテレビを見てご覧、あれはこの10年でも劇的に進化している。あれが究極になったら人は家で世界中が旅行出来る、どこにだって行った気になるもんさ、でもそれが幸せなのかい?画像での体験はあくまでも行った気になるだけさ。おいらにはそれが幸せとは思えないね。多少の不便で調度良いし、何かを得たら何かを失うならおいらは今のままでいいさ。)

 

 

 

(あなた時々哲学者みたいなことを言うわね、ある意味人間より人間らしいわ。)

 

 

 

(そうかい?でも千尋、おしゃべりは止めだ。本当に眠たくなってき…。)

 

 

 

「三四郎、そろそろ千尋を休ませてあげて。」

 

 

 

お母さんはそう言いながら調度いい気分だった三四郎を抱き上げ、私の膝からそっとおろした。

 

 

 

(これだから、人間は…。)

 

 

 

(文句言わないの三四郎、私もそろそろ横にならないとお尻がうっ血しちゃうのよ。)

 

 

 

(はいはい、分かったよ。代わりに千尋のベッドでは一番良い場所もらうからな。)

 

 

 

(好きにして。)

 

 

 

我が家は車椅子のまま出入り出来る構造だが、一階の客間を想定した和室を改築して私の寝室にした。その寝室のふすまは取り払われ居間から私に異変があればすぐわかるようになっている。また床ずれを防ぐ為に母は3時間に一回、私の姿勢を変え、さらにおしめの様子をみて10年間毎日世話してくれている。本当に母親って、母性の愛って凄いと思う。私が親になればその心境は分かるのだろうか?ともかくこれから寝返りの時には母親には多少声をかけられるが、私はこれから朝まで夢の世界へ旅するか、三四郎と会話するのが日常だ。

 

 

 

夢と言えば、私は寝ている時間を意外と楽しんでいる。それは夢の中なら歩けるのは当たり前として、空だって飛べるからだ。また、明晰夢というらしいが、私の夢は、色はあるのは当然で、臭いも、味も、そして体の痛みだって感じる。本当に夢の世界の方が生きている気がするし、眼が覚めれば後は、眼というカメラを通して世界を覗き見ている仮の姿だとすら感じる。余程夢の方が現実味があるのだ。

 

 

 

昨日の夢は、いつの時代から分からないけど、私は男の子の設定の夢だった。多分農家で畑仕事をしていた筈が気付いけば私は、川下りをしていた。その時に私が農家の少年だったかどうかは覚えていない。でも私は、確かにその世界を「生きていた。」

 

 

 

昨日の夢を回想していたら私はいつの間にか寝ていたらしい。私の部屋の天井には、テレビと時計が私の為だけに据えられている。これも目からの刺激が何かしらの脳内のシナプスをつなぎ、感覚が取り戻せるかもしれないという微かで僅かな希望を両親は得たかったのだろう。時計に関しては、四肢を動かせない私だって時間や日付、曜日くらいは知りたいだろうという両親なりの配慮だと思う。

 

 

 

何かしらの物音で私は夢の世界から生還した。どうやら今までは滅多に耳にしない、いやというより記憶にない夫婦喧嘩で目を覚まされたようだ。時間を見ると深夜0時を回った頃だった。

 

 

 

「お前、そんなに自分を責めるなよ。千尋が悪い訳でも勿論お前が悪い訳でもないよ。」

 

 

 

「それは分かっているつもり、あなたは一度だって千尋と私を責めたりしてない、でも十年間おしめを変えて、寝返りさせて、聞こえているのか分からない千尋に声をかけ続けるのも辛いと思う時はあるわ。」

 

 

 

(お母さん、ごめん…。)

 

 

 

「お前がどう思おうと、俺は千尋を信じている。あの子は俺たちの子だ。」

 

 

 

「私が悪いのよ。意識や感情があるんだか無いんだか、分からない子を産んでしまったから、」

 

 

 

「瑞樹!」

 

 

 

パシッと乾いた音が、テレビも消えて静まり返った部屋に鳴り響いた。

 

 

 

「ご、ごめんなさい。」

 

 

 

母は、聞き取れるかもわからない、謝罪の言葉を言いながら二回へ駆けあがった。

 

 

 

(お母さん、ごめんね。私が悪いの、だからお父さんもお母さんを叱らないで、悪いのは私なの。)

 

 

 

私は涙を流したことはない、でもこの時ばかりは心で泣いた。ただただ泣いたのだ。

 

気付けば朝になっていた。昨日も母は深夜の3時過ぎに部屋に来て、私を右向きから左向きに姿勢を変えてくれた。母は、姿勢を変えて掛け布団を直す間、終始、念仏でも唱えるように

 

 

 

 「千尋、ごめんね。」をひたすら繰り返した。

 

 

 

 聞こえていないふりをする必要もないのだが、私はただの熟睡を装った。私の中でも見なかったことにしたかったのかもしれない。

 

 

 

 翌朝の母は、いつもの母だった。今日は通院の日だった。正直この通院に何かしらの進展があったことは、少なくとも過去にはない。それでも両親はすがるように欠かさず月に一度の通院を続けた。何も変わらない日常だったが、昨夜の出来事は、私を明らかに変えた。それは私の中から沸々と湧いてでる母への思いだった。

 

 

 

 (お母さんを少しでも楽にさせてあげたい。)

 

 

 

 (お母さんの笑顔をもっと見たい。)

 

 

 

 (お母さん、有難う。)

 

 

 

 こんな思いが浮かんでは消えを繰り返し、私の中でループした。今までにもお母さんと話をしたいという思いは、無かったわけではない。でもこれ程ではなかった。

 

 

 

 この日から私は、私自身を見つめなおす日々で問題解決の答えはないかと思案するに終始した。脳みそで汗をかくかのように自問自答を繰り返したのだ。

 

 

 

 (私に出来る事。私に出来る事。)

 

 

 

 幾日も私はこの自分の思いを伝える方法を探し続けた。だが見つからない。そもそもそれが分かればとっくの昔にお医者様がアドバイスをしているだろう。

 

 

 

 原点に返ってもう一度私の体の機能を棚卸ししてみよう。

 

 

 

 私の四肢は一切動かず、立つ、座る、は当たり前として微動だに出来ない。

 

 

 

 五感はどうだろう?

 

 

 

 目は取り合えず部屋の中で誰がどこにいるかは分かる視力はある。それがどの程度の視力なのかは知らないが、私は視認する能力はある。瞬きは勿論するが、これも自律的に瞬きはするが、意識的にまばたきはしたことがない。

 

 

 

 耳も公園でこっそり揶揄する声が聞こえているのだから問題あるまい。大好きな母の慈愛に満ちた声も、どんな時も落ち着き払った父の声もしっかり聞こえている。

 

 

 

 口は、咀嚼は出来ない、実は食事がかなりの荒行で、苦痛をともない。下手をすると誤飲する可能性があるのだ。口は大きくあける事も出来ず、また、しっかり閉じる事も出来ない。声は出したことがない、出し方も分からない。多分産まれてからこのかた、口から音を発した事は私の記憶が確かなら皆無と言える。

 

 

 

 鼻もそれ程機能している訳ではないようだ。ただ他人との比較が出来ない自分は正確に自分をモニタリング出来ているとも思えない。

 

 

 

 皮膚の肌感覚はほぼない。たまにかすかな痒みを感じるが、困る程でもない。

 

 

 

 多くの人は口を使ってコミュニケーションをする。口が使えなければ手話、手話が出来なければ紙にペンを使って相手に何かしらの意思を伝えるだろう。どう考えても私にそれらが出来るとは思えない。残されてないの?私の動く場所は?私の生きている証は?

 

 

 

 目も口も手も全て使えない。

 

 

 

 (駄目なのかしら?思いに力があるのなら、私は常に両親に感謝の思いを伝えている。それはある意味伝わっているのかもしれない。だって母も父も私に意識があることを「信じて」くれている。それは伝わった証かもしれない。でも確かじゃないのだ。私も母もそれを半信半疑に思っている。それじゃ駄目だ。母だってそれ程強くない。この間の夜の様に、私の意思の存在を確かにしなくては、母を傷つけてしまう。)

 

 

 

 そんな事を始終考え一週間程時は流れた。相変わらず私は大好きな散歩のときも、夜寝ているときも常にどうすれば伝わるのか?それだけを考えていた。今も私は車椅子に括り付けられ三四郎は私の膝の上で暖を取っている。

 

 

 

 (最近悩んでるな~千尋。どうした?前はそこまで悩んでなかったろ?)

 

 

 

 私は深夜の夫婦喧嘩が私が原因で言い争っていたこと、そして母が私の心の存在を信じることに疲れ、悩んでいたことを伝えた。

 

 

 

 (お前の眼、意識的に動かせないのか?)

 

 

 

 私は少し考え答えた。

 

 

 

 (多分眼が乾くのね、無意識に眼は閉じて、またすぐに開けるを繰り返しているわ。それがどうしたの?)

 

 

 

 (根拠は無いけどお前が何か伝えるとするなら、それしかねぇと思うぞ。この間お前の散歩が終わった後に、母上がテレビを観ていてな、インターステラーとかいうアメリカの映画さ、そこで主人公が遠くから娘に何かを伝えようとして、一定の間隔で本を落としていた。それが何ていったかな、何とか信号さ。知ってるか?でも本を落とそうにもこの家に本棚なんてないもんな。)

 

 

 

 (そうね、それは無理よ。私は本を落とすどころか、指一本ピクリとも動かせないのよ。知ってるでしょ?)

 

 

 

 (ああ、勿論分かっているさ、でもなその信号なんちゃらは、一定の法則で信号を送れば相手に一文字ずつ文字情報として伝わるらしいんだ。だから眼を使うんだ。開けたり閉じたりを一定のタイミングで出来れば若しかしたらもしかするぜ。)

 

 

 

 (ほんと!?)

 

 

 

 私はその何とか信号は知らないが、先ずは三四郎の言うように眼を意識的に開閉できるか試してみた。

 

 

 

 (駄目だ、難しい、出来ることは出来るが、凄く疲れるのと閉じようと思ってから実際に閉じるまでには私の意識と大きな時間的ずれがある。)

 

 

 

 (あきらめるな千尋、今までやってなかった事がそう簡単に出来ると思うな。)

 

 

 

 (う、うん分かったよ。しばらく練習してみる。)

 

 

 

 それから練習の日々が始まった。両親は私のこの小さな小さな変化にまだ何も気づいていないようだ。三四郎のお蔭で私はコミュニケーションのきっかけというか、希望のようなものを貰った。それと私はもう一つひらめきが一つあり、少し試してみたいと思った。それは私の夢の中の住人に聞いてみるという手法だ。

 

 

 

 だって私の夢は、この世の物とは思えない風景や会ったことの無い人との会話、更に言えば見た事の無い生き物だってキャストとして出演している。その中で、その一定の信号でやり取りする方法を知っている人が居たっておかしくない。実際に私は夢で多くの物事を学んだ。

 

 

 

 そして更に幾日も時間は経過していった。散歩の時に見る風景もすっかり様変わりした。道行く人の装いは日に日にコートが目立ち、私の好きな桜の木は、すっかり葉は落ち丸裸だった。一つだけ言える事は、暑さも寒さも厳しくなればなるほどに私をのっぺらぼうと茶化す人は減っていった。多分暑さ寒さに耐えて目的とするエアコンの利いた空間に逃げ込む事が最優先で、私の事なんか構っている余裕がなくなるのだろう。だから私は真冬や真夏の散歩が一番の幸せな時だった。

 

 

 

 家に帰ると三四郎がのそっと近づいてきた。

 

 

 

 (どうだ?瞬きは上手くなったか?何とか信号は名前ぐらい分かったか?)

 

 

 

母に押され居間に連れていかれながら私は答えた。

 

 

 

(駄目、夢の中でもある程度意識を保って、会話は出来るようにはなってきたけど、その信号の存在が分かる人、通ずる人とは出会えていないの。)

 

 

 

三四郎はまたすぐに私の膝の上に乗りいつもの安楽な姿勢を形作った。

 

 

 

(そうか、あれからおいらも母上と一緒にテレビを観るようにしているんだが、あの映画以来、そういった類の話はテレビにでてないな。でも諦めるな、今まで十年も頑張って来たろ、でもな、お前に残された時間がどれくらいあるか、それも分からないぞ。)

 

 

 

(そうね、私もそれ程私に時間が無い気がする。また練習と夢の世界での情報収集は続けるね。)

 

 

 

私は瞬きの練習は、極力親の眼にとまらぬよう、隠れて練習した。それは私の瞬きが日常になってしまっては、せっかくの私の意思表示がただの風景になってしまうからで、私が頻繁に瞬きをした瞬間をおかしいと感じて欲しいのだ。そして私はひたすらに母の眼を盗んで開けては閉じてを繰り返し練習した。

 

 

 

その夜も、眠りに入る前に意識をしっかり持とうと心に留めながらすっと眠りに落ちた。その日は、いつもの様に見た事も無いような生き物は出てこなかった。周りを歩く人達の衣服を見ても普通に現代の日本の様だった。私はきょろきょろしながら話しかける人を探していた。すると向こうから歩いてくる40代なかばと思える男性が親しげに笑みをうかべなから私に近づいてきた。

 

 

 

(この人に聞いてみよう。)

 

 

 

私も私の中では最高である筈の笑顔で取り繕いその男性に近づいていった。だがその男との距離が2mを過ぎたあたりで一気にその男の顔から笑顔が消えた。いや笑顔がというより表情が消えた。

 

 

 

(怖い…。)

 

 

 

自分は他人にこんな恐怖を与えているのだと肌で感じた。怯えた私は、声を掛けるのを戸惑い、立ちすくんだ。変わらず男はその表情のまま近づいてくる。私と近づき通り過ぎるその刹那、その男はボソッとつぶやいた。

 

 

 

 「モールス信号だ。」

 

 

 

 (え!?今何て…。)

 

 

 

 男は立ち止まりくるっと首だけこちらに向けた。

 

 

 

 「お前の探している物はモールス信号だ。」

 

 

 

 「あ、有難う。」

 

 

 

 本当はもっとお礼が言いたかったけど、気づけば男はそこにいなかった、いやむしろ私が別の場所に瞬時に移動してしまったらしい。先ほどの町から今度は山の中にいた。私はお父さんと一緒に手を繋ぎ山道を歩いていた。山道は木々が生い茂り昼間なのに薄暗く不気味な雰囲気さえあった。だが父はいつもの父のままで、明るく、そして優しかった。いつも起きている時は父に手を握られても、それ程感覚ないのに、今は、抱きしめられている程に指の先から父を近くに感じた。

 

 

 

「千尋、もしもお前が突然何かのアクシデントで声を出せなかったり、助けを求めたくても声が届かない場所に何かを伝えたい時は、モールス信号っていうんだ。それを使うんだよ。」

 

 

 

言い終えると父は満面の笑みで私に懐中電灯を手渡した。

 

 

 

父は腰を曲げ私の目線に高さを合わせた。

 

 

 

「いいか、この光をつけたり、消したり、つけている時間の3倍、3倍の消している時間とつけている時間を交互に繰り返して相手に意思を伝えるんだ。トン ツーなら イ と認識する。トン トン ツーなら ウ と伝わるんだ。分かるか、若しもこの崖から落ちたら。」

 

 

 

と言い終わるかどうかのその時に、夢の中の父は手をさっと離し私を左の崖に突き落とした。

 

 

 

「お父さ~ん。」

 

 

 

夢の中で落下する恐怖を引きずりながら私は目を覚ました。

 

 

 

(ふ~、夢で良かった。せっかくのお父さんとのピクニックがあんな形で終わるなんて我ながら何て夢でしょう。)

 

 

 

最悪の夢を思い返し、確かに私は父と邂逅したとは覚えていたが、何か大切な事を聞き、そして忘れている気がしていた。

 

 

 

(何だろう、何を夢で聞いたんだろう。…。)

 

 

 

(…、何だったかな?山を歩いていて、お父さんと手を繋いで、懐中電灯を手渡され、…。)

 

 

 

(あ、も、モールスだ。モールス信号だ。お父さん、有難う。トン・トン・ツーで ウ だったね。)

 

 

 

そんな風に夢を思い出し興奮冷めやらぬ中、真上を向き微動だにしない私の視界の真ん中ににゅっと三四郎が顔をだした。

 

 

 

(止めてよ、三四郎。びっくりするじゃない。)

 

 

 

(お詫びは後だ、千尋、モールス信号だ。さっき母上がテレビを観ていた時にやってた。戦争映画で使ってた。懐中電灯を使って隣の軍艦に伝達する手段らしい。)

 

 

 

(え、それって偶然?私もたった今夢で教えてもらったの、最初は知らないおじさんだったけど、途中からお父さんに教わってたわ。最後は最悪で、最低な目覚めだったけど。)

 

 

 

(お、そうか、いよいよ動きだしたな。よし。おいらの方で分かったことは、軍隊が日常的に使っているという情報だ。お前のモールス信号という情報と軍隊を結び付ければ、自衛官であるお前の父上はモールス信号を解読出来るかもしれないな。可能性が出てきたぞ。)

 

 

 

(でもどうすれば、私は全ての言葉を覚えられるのかしら?)

 

 

 

(夢でそれだけの情報が得られるならモールス信号の変換一覧だって情報は得られそうだがな。お前はそっちの線をあたってくれ、おいらは父上が仕事の資料を見ている時に、モールス信号の一覧が無いか常に探りを入れてみる。)

 

 

 

(分かった三四郎、私も夢の中で情報収集してみるね。)

 

 

 

(おう。おいらの言った通りだろ?)

 

 

 

(うん、三四郎は凄いね。)

 

 

 

(へ、褒め殺しは止めてくんな。)

 

 

 

 翌朝、今日は通院の日だった。いつもの様に椅子に括り付けられ、私は、中央線で何駅か先の大きな総合病院に向かった。

 

 

 

 「先生、宜しくお願い致します。」

 

 

 

 母がいつもの様に主治医の先生に深々と頭を下げる間、私も気持ちは地につく程に頭を下げている気分だ。

 

 

 

 「はい、千尋ちゃんの具合はいかかですか?体重はいつ頃量りましたか?」

 

 

 

 「はい、昨晩、20キロでした。」

 

 

 

 私の体重測定は、父が私のお姫様抱っこしてくれて、その合計から父の体重を引いて計算している。私はこの父に抱っこされている間は時間よ止まれと思う程に嬉しいひと時だ。

 

 

 

 「あら、それは良くありませんね。先月よりも1キロ減っていますよ。10才の女の子の平均体重はおよそ35キロですから、筋肉が殆どない事を差し引いても限界かもしれません。流動食だけでは限界があるのかもしれません。今日も一応点滴をうっておきますね。山根さん、千尋ちゃんにいつもの点滴をお願い。」

 

 

 

 看護師さんが、私を車椅子ごと抱きかかえ、2人掛かりで私をベッドに移した。看護師さんに抱っこされるのと、父に抱かれるのでは私のテンションは雲泥の差だ。母は先生と何かを話している。これから私は退屈な時間だ。針を刺される痛みも、栄養を得た喜びも無い。ただの時間の経過なのだ。

 

 

 

 「はい、では先生その様にお願いします。…、先生、千尋は、千尋の人生には後どれくらい残されているのでしょうか?」

 

 

 

 「それは分かりません。ただ過去に千尋ちゃんの様なケースで成人出来たケースは稀だと言えます。」

 

 

 

 「勿論、それは私も分かっています。でも私は千尋に伝えたくて、私はあなたを産んで良かったって。毎日それを千尋に伝えています。でもそれが伝わっているのか…。だから一日でも長く、あの子と暮らし私の思いを伝えたいのです。親のエゴかもしれませんが…。」

 

 

 

 「エゴだとは思いません、ですが本当に予測が難しいのです。ただ今回の様に一か月で1キロも体重が落ちているのは良い傾向とは思えません。それでなくとも生命活動を維持する限界に近いのですから。」

 

 

 

「そうですよね。私は毎朝千尋が息をしているか、確認する度に心拍数が上がります。」

 

 

 

「お察しします。ですが諦めないで、お母さんがそれだけ思っている事は、千尋ちゃんに必ず伝わっていますし、きっと感謝していると思いますよ。」

 

 

 

 「有難うございます。そうだと嬉しいですね。」

 

 

 

 「先生、千尋ちゃんの点滴が終わりました。」

 

 

 

「有難う、ではまた車椅子へ。」

 

 

 

(永遠に思えるほどに長い点滴の時間が終わった。またお母さんに会える。)

 

 

 

私はまた二人の看護師に抱かれて車椅子の定位置に戻され、母の元へ通された。

 

 

 

(あ、母の目が赤い。先生に何か言われたのかな?私がもう長くないとか言われたのかしら?)

 

 

 

母は懸命に涙を拭い笑顔を取り繕いすくっと立ち上がった。

 

 

 

「じゃ、千尋ちゃん、また来月来ましょうね。お母さんが先生にお礼は言っておいたから。じゃ、先生お世話になりました。ありがとうございます。」

 

 

 

「はい、お母さん、気丈にね。」

 

 

 

先生は座ったまま、軽く会釈した。

 

 

 

もしも私の勘が合ってたとして私にそれ程時間が残されていないとしても、私にはその残された時間がどれほどあるか一切分からない。普通の病気なら体力の衰えが一つの物差しとなろう、でも私には元から体力なんてものが備わっていないのだ。ただいつくるか分からない両親と三四郎との別れに怯えて生きなくてはいけない。私は誰にも何も伝えられずに死んでいくのだろうか?死に恐怖を感じた事は今までなかった。それはこの世に生をうけた時から、死は私のそばから片時も離れず寄り添っていたからで、私の人生は死と共にあるのだ。それは理解しているつもりだった。でもモールス信号という一つの希望が私の心に光を灯した。そして真っ暗闇だった私の心に一筋の光明を見出させることになったのだが、光があれば闇もあるのは自明の理、それも理解出来る。モールス信号という私の発見は、私の心深くに死に対する恐怖を植え付けた。それから私は両親に伝えたくなった。私はのっぺらぼうじゃない。私は今を生きていると。

 

 

 

病院に行ってから数日が経った。私は相変わらず起きている時は瞬きの練習、そして夢の世界では情報収集に励んだ。三四郎は父が書斎にいて仕事をしている時は常に机の上で父の仕事を観察していた。

 

 

 

今日は休日、父は休みと言っても来春入ってくる新人の教育係を任されたらしい。自衛官の心構え、必要なツール、基礎ちゅうの基礎を昼間から書斎で復習していた。

 

 

 

「どうした三四郎、最近やけにお父さんのところに一緒にいるね。お父さんが好きでちゅか~?」

 

 

 

(おい、赤ちゃん言葉はやめろ、おいらは十一歳、中年もいいとこだぞ。)

 

 

 

 三四郎は机の上で座りながらシャーと威嚇した。

 

 

 

「あらごめんな。ご機嫌斜めだったね?お父さんは仕事に励むよ。」

 

 

 

父は、その後、教本のページをめくった。その瞬間三四郎は刮目する。

 

 

 

(モールス信号の一覧だ。)

 

 

 

三四郎は必死でそのぺーじを覚えた。

 

 

 

(23Pか。)

 

 

 

そうと分かれば三四郎は、その資料の保管場所を覚えればよかった。ただ父の仕事はしばらく終わる様子はなかったので、三四郎は父の仕事机の上で一寝入りすることにした。どのくらい時間が経ったのか三四郎が気づくと父はそこにいなかった。

 

 

 

 (しまった。深く寝入ってしまったらしい。確かあの本の名前は自衛官基礎教本、それの23Pだ。小さくズボンのポケットに入りそうなサイズの書籍だったので、あれを本棚にはしまうまい。)

 

 

 

 三四郎はキョロキョロと書斎の中を見渡した。すると机のわきにあるローテーブルの上にそれがポンと放り投げられているのを見つけた。三四郎はひょいとローテーブルに飛び乗りその本を口に咥え、千尋の寝ている寝室に駆け足で向かった。

 

 

 

 部屋に着くと、千尋はベッドにあおむけで寝ていたが軽々とそのベッドに飛び乗った。

 

 

 

 (どうしたの三四郎、いつも言うけどビックリするじゃない。)

 

 

 

 三四郎はその教本を口に咥えたまま返事をした。

 

 

 

 (千尋、見つけたぞ、父上の部屋から拝借してきた。)

 

 

 

 (え、本当!?モールス信号の一覧ね?有難う。私の夢の世界では何も進展が無くて途方に暮れてたの。)

 

 

 

 (ちょっと待てよ。今そのページを開くからな、瞬きの練習は順調か?)

 

 

 

 三四郎は加えてきた教本を枕の横におき、右前足で表紙を抑え、左前足で起用にページをめくった。

 

 

 

 (ええ、少しだけど上達したわ、タイムラグが多少減ったのよ。三四郎の言う通りね、諦めちゃダメだったわ。)

 

 

 

 (よしその調子だ。、この本の23Pだ。千尋、これを暗記しろ。)

 

 

 

 三四郎は今度は左手で抑えながら、口で本を咥え、千尋の眼前にぶら下げた。

 

 

 

 (三四郎、有難いけど、上下が逆、それをひっくり返して見せられない?)

 

 

 

 (え、これ小さい本だけど、猫には結構しんどいんだから、軽く言うなよな。)

 

 

 

 再度、本を置き、クルッと回転させてもう一度咥えて千尋に見せた。

 

 

 

 (うん、これならよく読める。あ は、ツー・ツー・トン・ツー・ツーね。)

 

 

 

 (い は、…。)

 

 

 

 (三四郎まだ持てる?これ全部覚えるって意外と大変よ。)

 

 

 

 (大丈夫さ、これを昼間のこのくらいの時間に毎日見せてやる。それで覚えろ。)

 

 

 

 (うん、分かった。取り敢えずア行は覚えた。)

 

 

 

 (よし、毎日これをやろう。ベッドの上に置いておくと片づけられるから、ベッドの下に隠しておくぞ。)

 

 

 

 (うん、頑張らなきゃ。あ、三四郎、有難うね。)

 

 

 

 「母さん、この書斎のテーブルの上に置いたポケットブックをかたしてくれたかい?」

 

 

 

 「いいえ、またいつもの様に、自分でどこに置いたか忘れたんでしょ?」

 

 

 

 「え?そんな筈は、確かにぽいとテーブルの上に放り投げはしたけど…。」

 

 

 

 三四郎は慌てて、ベッドを飛び下り、ベッドの下の奥深くに隠した。ベッドの下は、人は入れないまでも、猫にとっては広々とした空間が広がっていた。三四郎は人の手が届かぬほどの奥深くに本を置いた。

 

 

 

 それから毎月計ったように1キロずつ体重は減っていった。私は別にだからと言って何が辛いとか感じる訳では無かった。むしろ瞬きはかなり上達し、何とかゆっくりと信号が送れるようになってきた。

 

 

 

 体重が16キロになった頃、ある朝起きると妙な違和感を覚えた。呼吸が辛いのだ。口からなのか喉なのは分からないが、その辺りからヒューヒューと聞いた事が無い音がしていた。

 

 

 

 (お母さん、辛い。助けて。)

 

 

 

 まだ外を見ると薄暗く、夜が明けるには時間がかかりそうだ。その時いつもの愛に満ちた声がした。

 

 

 

 「千尋、どうしたの?お父さん!!千尋がおかしいの。」

 

 

 

 父の返事が無いのを確すると母は父を起こしに二階の寝室に向かった。息苦しさは増していく一方だった。段々と意識が薄れていくのを感じた。

 

 

 

 「千尋ちゃんは肺炎です。健常者であれば勿論それ程恐れる事はありません。また抗生物質は有効ですが、逆に千尋ちゃんは、その薬に耐えられない可能性もあります。それでも私は投与をお勧めします。いかがいたしますか?」、

 

 

 

「はい、お願いします。少しでも可能性の高い方を選びたいと思います。」

 

 

 

 眼が覚めると天井にはテレビも時計を設置されていなかった。

 

 

 

 (あ、病院だ。お母さんが連れて来てくれたんだ。でもまだ辛いや、喉は多少良いけど、頭が働かない。仕方がないまた夢の世界へ行こう。)

 

 

 

 千尋は眠りに落ちた。だがそこには別世界は広がっていなかった。無、何もなかったのだ。

 

 

 

 (あ、どのくらい寝ていたのだろう?しばらく寝ていた気がする。)

 

 

 

 「千尋ちゃん、良かった。あなた千尋ちゃんが目を開けたわよ。千尋、あなたは三日三晩も目を覚まさなかったの。お母さんこのままあなたが帰ってこないかと思って…。」

 

 

 

 (そうか、私は三日も寝ているというか、気絶していたのね。道理で夢の世界が無かったのか~。)

 

 

 

 私は三日間の暗闇旅行から帰還したという安堵の思いと同時に死とは、あんな物なの?と想像してぞっとした。私が消えちゃうんだというリアルがこの三日間の体験だったと思い知ったのだ。

 

 

 

 「千尋、頑張ったな~、良く帰ってきた。もう大丈夫だぞ。」

 

 

 

 (お父さん、私頑張ったのかな?自覚無いよ。)

 

 

 

 その時私はここ数カ月の練習の成果を見せるなら今だと思った。両親は二人とも揃っているし、何より私に残された時間がそれ程残されていないと何となく感じたからだ。

 

 

 

 (よし!)

 

 

 

 私は意を決して瞬きで両親にメッセージを送り始めた。

 

 

 

 「あなた、突然千尋が瞬きを何度もしているの、こんなの今までなかった。苦しんでいるのかもしれないわ。主治医の先生を急いで呼んできてくれる?」

 

 

 

 「よし分かった。」

 

 

 

 父は足早に部屋を出た。私は瞬きを止めた。

 

 

 

 「あら、止まったわ。何だったのかしら。」

 

 

 

 すると主治医の先生と父が四人部屋の病室に入ってきた。

 

 

 

 「先生、先ほどまで千尋が今までにしたことがないくらい、目を開けたり閉じたり、こんな事今まで無かったんです。何か苦しいのでしょうか?」

 

 

 

 先生は心電図と体温をチェックした。

 

 

 

 「いえ、お母さま、特に問題は無い様です。」

 

 

 

 「あ、でも先生、また千尋が瞬きを始めました。千尋ちゃん、苦しいの?」

 

 

 

 「ま、待て、これは一定の法則で目を開閉している。まるでモールス信号の様だ。」

 

 

 

 (お父さん、お父さんなら分かってくれるって信じていたよ。)

 

 

 

 「こ、え、て、る、わ、た、し、き、こ、え、て、る。」

 

 

 

 「千尋、私聞こえてる。であってるか?」

 

 

 

 「う、ん。」

 

 

 

 「わ、た、し、い、き、て、る。」

 

 

 

 「馬鹿野郎、そんな事は分かってたさ。」父は鼻をすすった。

 

 

 

 「う、ん、で、く、れ、て、あ、り、が、と、…。」

 

 

 

 「千尋ちゃん~。」

 

 

 

 堪らず母が泣きじゃくりながら、私を抱きしめた。

 

 

 

 「お母さん、取り敢えず容体は落ち着きました。どうです。千尋ちゃんも病院より自宅の方が落ち着きませんか?こんな事が、まさかモールス信号で意志の疎通をはかろうと、普段から相当練習した筈です。これは、奇跡です。こんな事例を私は見た事がありません。」

 

 

 

 「そ、そうですか、奇跡的な出来事なんですね。瑞樹、先生の仰るように、家で千尋とお話しよう。」

 

 

 

 「は、はい。そうさせて頂きます。」と母は涙をぬぐいながら答えた。

 

 

 

 「ではお母さまは退院の準備を、お父様ちょっとよろしいですか?」

 

 

 

父と主治医の先生は病室を出た。

 

 

 

 「お父様、そろそろ心の準備を。体力の低下が著しく、正直これ以上は千尋ちゃんの体力頼みです。」

 

 

 

 「そ、そうですか、分かりました。妻には私から伝えます。先生、お世話になりました。」

 

 

 

 「よして下さい。先ほどとは言ってることが違うと思われるかもしれませんが、まだ終わってませんよ。こういった仕事柄奇跡的な回復は何度も目にしました。ご両親の千尋ちゃんを思う気持ちが奇跡を起こすのです。まさにその奇跡を目の当たりにしたばかりじゃないですか。」

 

 

 

 「そうですね。先生、本当に有難うございます。」

 

 

 

 先生はただ頷いていた。

 

 

 

 家に帰ると私はベッドに直行だった。ベッドに戻る前に三四郎が近づいてきた。

 

 

 

 (千尋、大丈夫か?)

 

 

 

 (う、うん、かなり良くなったよ。それとね三四郎、私、父と母にメッセージ送れたよ。)

 

 

 

 (そうか伝わったのか、諦めなくて良かったな、父上と母上は泣いたろ?)

 

 

 

(うん、母は泣きじゃくっていたわ。)

 

 

 

 「三四郎ちゃん、ちょっとごめんね。千尋ちゃんのベッドの支度をしていいかしら?」

 

 

 

 三四郎に声を掛けると母は布団の乱れを整えていた。

 

 

 

 「瑞樹、ベッドが終わったら、ちょっといいか?二階にいるから。」

 

 

 

 「は~い。ちょっとお待ちくださいね。」

 

 

 

 母は丁寧に本当に丁寧に私のベッドの環境を整えてくれた。

 

 

 

 「それじゃ千尋ちゃん、少し二階に行ってくるわね。三四郎、千尋ちゃんをよろしくね。」

 

 

 

 二階の寝室に母が行くと押し黙った父がいた。

 

 

 

 「瑞樹、さっき先生に言われた、覚悟しろと。かなり悪いそうだ。でも千尋に悟られるな、悲しい顔をしちゃ駄目だ。泣くならここで今泣くんだ。」

 

 

 

 「そ、そんな千尋ちゃん頑張ってやっと帰ってきてくれて、やっと目でお話出来るように…。」

 

 

 

 「取り敢えず俺は先に千尋のとこに行く、落ち着いたらお前も来てくれるか?」

 

 

 

 膝から崩れ落ちた母は、両手で顔をふさぎ、ただ首を立てに振った。

 

 

 

 「千尋、今まで10年も頑張ったな、お父さん驚いたぞ。お前からモールス信号とは、どうやってお前がその手を思いついたのかは、謎だが、今はそれを聞くより、もっと聞きたい事がある。今の季節は4月末、いわゆる春だ。今なら気候としてもそれ程厳しくない。父さんな、お前と旅がしたいんだ。お前は行きたい所はないか?」

 

 

 

 「し、ば、ざ、く、ら、い、ち、め、ん、の、し、ば、ざ、く、ら、が、み、た、い。」

 

 

 

 「芝桜が見たいんだな、お安い御用だ。秩父に芝桜の名所がある。そこへ行こう。」

 

 

 

 「う、ん。」

 

 

 

 よし明日は天気も良いみたいだ。早速明日見に行こうな。

 

 

 

 「さ、ん、し、ろ、う、も、い、つ、し、よ。」

 

 

 

 「三四郎も一緒か?それも大丈夫だ。家族みんなで行こう。」

 

 

 

 (お父さん、有難う。いつか一面の芝桜を見てみたかったの?三四郎にも見せたいわ。)

 

 

 

 (千尋、芝桜なんて食えないんだろう?あまり興味ねえな。)

 

 

 

 (三四郎、私の頼みが聞けないの?滅多にこんなお願いしないでしょ?)

 

 

 

 (分かったよ。今回きりだぞ。)

 

 

 

 (うん、三四郎はなんだかんだ言って優しいね。)

 

 

 

 (ちぇ、よせやい。)

 

 

 

 (三四郎、少し疲れたから寝るね。)

 

 

 

 翌朝山崎家は少しだけ早起きし、車で出掛けることにした。私は車いすのまま入れるレンタカーを父が借りてきてくれて、そのまま乗れた。

 (三四郎、私の膝の上においでよ。)

 

 

 

 (千尋、おいらはこの車って奴が苦手なんだ。突然まがって、どっちに曲がるかも分からないしな。)

 

 

 

 いつものように体調は分からない。ただ喉の調子は問題なく、意識が朦朧としている訳でもなかった。むしろ冴えていると言っても良いかもしれない。私はおよそ2時間ばかりのドライブを楽しんだ。

 

 

 

 「千尋、ここが秩父の芝桜の丘って場所だ。お父さんも初めてだけど、評判だぞ。」

 

 

 

 (お父さん有難う。)

 

 

 

 父が車椅子を押してくれた、三四郎はいつもの膝の上、母は私の左後ろを寄り添い歩いてくれた。園内に入るとすぐに特産物の市場、観光案内所があったが、それを過ぎれば絶景、40万株の芝桜が私をもてなしてくれる。父は私が首を左右に振れない事を承知しているので、ゆっくりと進み止まっては、パノラマ撮影するかのように、車椅子をゆったり回転させてくれた。園内の中程まで進んだ時、私はもどかしさを感じた。あの辺りや、あっちの芝桜も見たいな、そう思った瞬間私は立っていた。今まで全然立つどころか、足はピクリとも動かせなかったのにだ。私は両親と離れて心配をかけぬよう、半径10m以内をつかず離れず園内の散策を楽しんだ。

 

 

 

 (三四郎、私立てたよ。)

 

 

 

 振り向き、車椅子を見ると目を閉じた私がそこにいた。

 

 

 

 (え、私ここにいるけど。)

 

 

 

 (千尋、それが死ってやつだ。今お前は死んだんだよ。)

 

 

 

 (え、噓でしょ?三四郎。私今までで一番生きてる。五体も五感も全て機能しているの。)

 

 

 

 「お父さん、千尋の様子がおかしいの。」

 

 

 

 「え、…。」

 

 

 

 父は私の手を取り、脈をとった。一瞬の間をおいて、父は首を横に振った。

 

 

 

 「そ、そんな。千尋ちゃん、まだ奥にもっときれいなお花があるの。まだ行っちゃだめ。」

 

 

 

 私は私の顔を覗き込んだ。そこには出るはずの無い涙が頬を伝っていた。最初で最後の涙だ。

 

 

 

 (三四郎、私戻れない?まだお父さんとお母さんにサヨナラも言っていない。)

 

 

 

 「瑞樹、千尋は10年も頑張ってくれた。そしてどうやったか知らないが、僕らに産んでくれてありがとうって言葉までプレゼントしてくれた。もう充分だろう。千尋をその体から解放してくれないか?」

 

  

 

 (お父さん、私まだ、まだお父さんやお母さんと一緒に居たい。)

 

 

 

 「千尋ちゃん、有難う、本当に有難う。あなたが私の生きがいだったの。」

 

 

 

 (お母さん、私はお母さんに毎朝会えるのが眼福だった。突然の別れは私も本意じゃないの、お母さん、こんなに近くにいるのにお母さんの体温を感じられない。今は自由にどこにでも行ける。でもどこにも行けないけどお母さんの手のぬくもりを感じられる不自由が私にとって最高の幸せだったの。)

 

 

 

 「千尋、お前はきっと人知れず努力をして私たち夫婦に感謝の言葉を告げてくれた。お父さんもお母さんもお前のその努力に感謝してる。だがなお前は頑張りすぎぐらいに頑張った。もういいんだ。お父さんも、そしてお母さんもお前から充分に愛を、家族愛をもらった。本当に有難う。」

 

 

 

 (お父さん、私絶対に忘れない。あなたが私にくれたものを。お父さんは人として大切な物、そのすべてを私に注いでくれた。私は世界中の誰より幸せよ。)

 

 

 

 (千尋、そろそろお迎えだ。お前にとっての死は不自由な肉体からの解放さ、だからおいらは悲しまないよ。先に行ってろ千尋、おれもそれ程かからずにそっちに行くからな。)

 

 

 

 (三四郎、三四郎が居なかったら、私は両親に感謝の思いを告げることはかなわなかったわ。それに三四郎が私の話相手だったから、私は退屈せず充実した人生を過ごせたの。あなたは私の兄であり、友でもあり、先生でもあった。本当に有難う。)

 

 

 

 私は、気づけば空に浮いていた。

 

 

 

 その瞬間、本当に一切の時間を経過せずに私は産まれ立ての赤ちゃんだった。

 

 

 

 (え~、私さっき死んだばかり、やっとゆっくり出来ると思ったのに、ここは…、病室か~。産まれ変わったのね。ま、いいか前回に比べれば、私はおぎゃ~と大きな声で泣く事もじたばたと足を動かす事も楽にできる。そんな私は幸せだ。)