(あ、このすももの木がまだ有った)
靖子は自分が幼い頃に木によじ登り酸味の抜けきらないすももにかじりついていたこと、そして何よりそれが自分にとって最高の楽しみだったことを懐かしんでいた。
(あ、お隣の長尾のおじさんもまだ表札はかかってる。元気かな?)
(あの時は二人だった…。いけないいけない。切り替えよう。)
今年の三月は、暑い日、寒い日が交互にくる寒暖の差が激しい季節だったが、今日は暖かい日の番だった。今朝見た天気予報では五月上旬の陽気とニュースキャスターは言っていた。バス停から歩いている靖子は羽織っていたジャケットを脱ぎ、手に掛けた。
靖子のふるさと広島県呉市 上蒲刈島(かみかまがりじま)は自分がいた当時とパッと見た目は何も変わっていなかった。島は一周まわっても28キロ弱、小さな島で、人口は年々減っていき今では1500人程の方が暮らしている小さな島だ。長さ400mの県民の浜は日本の渚・百選にも選ばれる美しいビーチだが、観光客のひしめくビーチより、靖子の幼少期はもっぱら遊泳禁止の岩場で遊んでいた。
靖子は学生の時に入学と同時に上京し、卒業後、東京の広告代理店に就職した。そしてそこで出会った同郷の佐々木 友康と結ばれた。
友康は高校の教員で、夫婦ともに多忙ですれ違いも多く、また子供との縁もなく、10年を待たずに二人は別の道を歩んでいくと決めた。そしてそれを契機に靖子は故郷に帰ってみるかと帰郷したのだ。瀬戸内海の他の島と同様過疎化の流れからは逃れられず建物の数は変わらずとも人の数、その絶対数はピークの半分程だった。自分がいた頃はもっと活気があったなと懐かしさを楽しむまもなく、靖子は寂しさを感じていた。
(島が枯れている。)
靖子は自分の離婚と重ね合わせ島とシンクロしていた。離婚そのものに後悔はない、夫とのすれ違いの日々は苦痛以外の何物でもなかった。別れて正解だろう。それでも靖子は自分を責めていた。
自分にも何かしら出来る事があったのでは?常にそれが頭の中をループしていた。あの時こうすれば、あの時こう言えば。これは決して後悔ではない。次に進む為の反省だ。それが彼女の精一杯の自分に対する慰めなのだ。
「ただいま~。」
靖子は少し声を張り気味に元気を装い引き戸を開けた。
「あら、靖子かい?帰ってくるの今日だっけ?」
母はエプロンで手をぬぐいながら、奥から小走りで出迎え、私の為にスリッパを出して並べてくれた。母には離婚したこと、実家に帰ってくること、仕事をこちらで探すことをしっかり期日も含めてLineで送っていたのだが、何しろ私のLineをなかなか見てくれない母に正確に物事を伝えるのは大変だ。何も迎えに来いとは言わないが一人娘が帰ってくる日くらいは覚えていて欲しい。私は乱れる心を抑えながら靴を脱ぎそそくさと居間に向かった。実家特有の線香交じりの匂いが懐かしい。お仏段に線香をお供えし、手を合わせ、蝋燭の火を手際よく手ではらい火を消した。
「あたしもお父さんとは長い付き合いだったけど、あんたのとこは何年続いたんだっけ?」
母はお茶をつぎながら、私に近況報告を求めた。私は座布団の上にあぐらをかき、いつもちゃぶ台の上にあるミカンの皮をむいていた。
「10年」
「そう、あんたにしてはもった方じゃね。」
私はほっといてよ、と心の中で呟きながらミカンの四分の一くらいをちぎって口に放り込んだ。子供の頃からずっと続くこのちゃぶ台の上のミカンという風景、学校から帰ってくればいつものおやつ、食べたくとも食べたくなくともその季節になれば切らすことなく常にこの上にあった。そんな状況だからこのミカンについて美味しいとか不味いと感想を抱いたことは一切無かった。無意識に二つ目のミカンに手を伸ばした。
「あら、何で泣いとるんじゃ?」
気づけば私は泣いていた。それ程にこのミカンは美味しく、そして私の心を揺り動かした。
「こんなにこのミカン美味しかったっけ?」
涙を拭う訳でもなく、私は三つめのミカンに手を伸ばした。
「そこにあるのが当たり前だったからね、でも毎年箱ごと送ってたから、そのミカンを食べるのもそれ程久しぶりじゃないじゃろ?」
「何でだろう。とにかく今日のミカンは美味しい。」
「いい加減、その涙と鼻くらい拭きなさい。」
母はちゃぶ台の上のティッシュペーパーを二枚抜き取り私に手渡した。私はずず~っと大きな音を立てて鼻をかみ、ティッシュはゴミ箱にバスケットボールのシュートの様に放物線を描き投げ捨てた。
その後は黙々とミカンを食べた。子供の頃は20個くらいは平気で食べられたのにと思いながら五個目のミカンの皮をむき始めた。
「今日の夕飯はお刺身と肉じゃがでいい?」
キッチンから母の声がした。
「うん、いいよ。何か手伝うことある?」
私も負けじと大きな声で答える。
「ええよ。あんたは帰ってきたばかりじゃ、明日から職探しじゃろ?ボチボチやりなさい。」
私はこの島で生まれ育った。そしてまさかの同郷の四歳年上の元主人と東京で出会う。私の運命の人はこの人。出会った瞬間に思ったのが運の尽きだったと気づくのはもう少し時が流れてからの事だ。今更別れた人を悪者にするつもりはないが、それにしてもあの10年は辛いという言葉すら生ぬるかった。
(ふ~、漁師にでもなろうと思って帰ってきたけど、そんなに甘いもんじゃなかった。)
友康は、東京で教員を辞めて故郷に帰って来て既に数週間を経ていた。
(呉市まで通うかな~。)
地方都市といえど呉市まで範囲を広げても地方の街は職探しには辛い場所だった。だが友康は東京から帰ってきたのに、広島市なんて大都会にまで通勤したくもないし、想像しただけでぞっとした。今日は上蒲刈島から下蒲刈島にまで就職活動の範囲を広げて下蒲刈島漁協に来てみた。
「すいませ~ん。」
受付には人がいなかったが、奥から40そこそこの女性が出てきた。
(同世代かな?)
見た目は友康よりも老けて見えたが、何しろ女性の年齢は分からない。
「どうされたかね?」
「職を探しているのですが、何かありませんか?」
「今島だと漁業か農業じゃけ、そんなのでええの?」
「はい。出来れば漁業が良いと思って帰ってきました。」
「あんた島の人かね?」
「はい。大学の時に上京して、3週間程前に島に帰ってきました。」
「な~、どこかで募集掛けておったかね?」
その女性は奥の恰幅の良いが60代くらい、髪の毛はかなり薄くなっている男性に声を掛けた。その男は新聞を読み続けながら問いに答えた。
「いや、今はこの島では募集は掛けておらんように思うけど。景気が悪いでの。」
でも上蒲刈島の長尾さんが募集を掛けておらんかったかの?」
「そうね~。今頃昼寝をしとるかもしれんけど、電話してみようかね。あんたちょっと待ってね。」
「は、はい。」
僕は受付の前のベンチシートに腰掛け、スマフォをスーツの胸ポケットから出し、何か変わったニュースはないか世の中をチェックしてみようとニュースサイトを開いた。
(あまり、景気の良い話は聞かないな。)
ネットのニュースサイトでは子供の虐待の話、老人の車が高速道路を逆走した話で一杯だった。
スマフォをいじりながら5分程待つと、先ほどの受付の女性から声がかかった。
「あんた、長尾さんが会うから家まで来てくれんか?と言っているけど行けるんかな?」
「住所を見させて頂けますか?…あ、ここなら実家からそう遠くないです。バスで行けますが、待ち時間があるので時間はかかると思いますが…。」
「大丈夫じゃろ。島の人だし、漁師なんだから、今は手が空いている時間じゃろ?」
時計を見ると14時を回ったところだった。漁協から歩いて5分程でバス停、バス停では30分程待つとバスが来た。乗ってしまえば30分も掛からず最寄のバス停まで行ける筈だ。
バス停から降りてすぐ近くの場所がその住所だった。バス停に着いた時点で嫌な予感がした。
(あれ、これって靖子の実家の近くだ。嫌なことを思い出させるな~。仕方ない同郷の人と結婚して別れたんだから。)
友康は、スマフォの地図を頼りに歩いていた。
(あ、やっぱり。)
長尾さんの表札の横の家は坂田の表札、靖子の旧姓だし、ここには何度も来ている。
これはまずいと一瞬くるりと来た道に向いたが、そこでピタッと止まり、再度長尾さんの玄関扉と向き合った。
「ごめん下さい。」
鍵のかかっていない平屋の引き戸をガラガラと音をたてて開けた。
「下蒲刈島の漁協から紹介された佐々木と言います。」
「おお、聞いとるよ。中に入んな。」
見た目は70代後半だろうか、だが背筋はしゃんと伸び、髪は薄いが、黒々と日に焼けた肌はまだまだ漁師として現役であろうことがうかがい知れた。
奥の和室に通され、ちゃぶ台を挟んで僕らは向き合い座った。僕は、一応はと慣れない正座で座る。
「足ぐらいくずしなさい。お茶でええかの?」
「あ、お構いなく。」
立ちかけた男は座り直した。
「それで、漁師になりたいんか?経験はあるんかの?」
「いえ、僕は東京で教員をしていまして、でも部活で野球を教えていたので、体力には自信があります。」
僕はカバンから履歴書を出そうと手を伸ばした。長尾さんは察したのか、黙って手で待ての合図をした。
「わしのやっとる漁は、単船での底引き網漁じゃ、モーターが網を巻いてくれるし、それ程力は要らんよ。でも人手が足りずに困ってもおったし、何よりわしももう年じゃ。子供もおらんし誰かが継いでくれんかの?と調度おもっとったところじゃ。一生懸命教えるけん。継いでくれるじゃろうか?」
「え、本当ですか?職が無くて本当に困っていたんです。一生懸命覚えますし頑張ります。宜しくお願い致します。」
僕は少し後ずさりし、ちゃぶ台の下まで深々と頭を下げた。
「こちらこそじゃよ。家はどうしとる?実家はこの島なんじゃろ?」
「はい、実家は狭いので、今は民宿にお世話になっています。」
「かまがりさんけ?」
「はい。」
「あそこは蒲刈漁協にも近いけん、楽じゃけど。お金は勿体無いのお。良ければうちに住まんかい?」
「え?いいんですか?」
「あぁ、ええよ。部屋は余っとる。一人では広すぎるくらいじゃ。」
話が決まり、これからどうする?というその瞬間にガラガラと引き戸が開く音がした。
「長尾のおじさん、ごめん下さい。母が肉じゃが作って余ったから長尾さんとこにおすそ分けしてくれって。」
っとどこかで聞いた声がした。
「おお、坂田さんとこのお嬢さんけ?」
「はい、覚えてる?おじさんは相変わらず元気そう。」
そこで僕と玄関の女性と目があった。
「おお、何でも東京から来られた方で、今度うちに住んで一緒に漁をすることになった…。え~と何さんじゃったかの?」
「は、はい。佐々木です。」
僕は頭をかきながら答えた。靖子の顔から血の気が引くのがみてとれた。
「ちょっとおじさん、先ずはこれをもってあのちゃぶ台の上に置いて。あたしは外にいるから、ちょっと出てきてくれる?」
「なんじゃ面倒くさいの、ここじゃいかんのか?」
「ごめん、野暮用で。」
靖子は片目をつぶり、手を合わせ頭を下げた。
「ほなしょうがないで、ちょっと待ってな。」
僕は一人で待たされた。
「待たせたの。血相変えてどうしたんじゃ?」
「ちょっとおじさん、久しぶりにお会いして申し訳ないけど、どういう事?あそこにいる男は元旦那よ。」
「おお、あんた結婚しとったんか、そりゃあんた別嬪さんだし、年頃じゃからの。」
「そういうのどうでもいいの。いい?
わ、
か、
れ、
た、
元!
旦那がそこにいる。確かに同郷だったけど、お互い東京で暮らしていたのよ。」
「そりゃ不思議じゃの、どんなご縁じゃろ?彼は今職を探して下蒲刈島漁協から紹介されて来たばかりじゃ。今度うちに住み込みで働いてもらおうとおもっとったところじゃ。」
「ち、ちょっと待ってよ。あたし隣の実家に帰ってきて、これから母親と暮らすのよ。」
「おう、そうかお隣さんじゃの、よろしくお願いするけんの。」
「なんかずれてるのよね~。せっかく別れたのに、また別れた旦那とお隣さんなのよ。分かります?」
「わかっとるつもりじゃが、うちも跡取りがおらんでの、せっかくの申し出やけ、なんとか辛抱してくれんか?」
と長尾のおじさんは自分の子供くらいの私に深々と頭を下げた。
「や、やめてよ。そんな頭下げられたら、なんか私が悪い事してるみたいじゃない。肉じゃが冷めるわよ。分かったから中入って。」
「そうか~、悪いの。」
長尾のおじさんは面々の笑みで答え、家の中に入っていった。私は実家に駆け込んだ。
「お母さん!聞いて!隣にさ、佐々木がいる。」
刺身を切っている母は手を止めずに答えた。
「あんたも佐々木じゃろ?」
「違うの、元ダンがそこにいるの、隣の長尾さんの家だって、住み込みだって。これから毎日あら、おはようさん、今日もいい天気ね。なんて会話を別れた旦那としなくちゃいけないってこと。」
「それは凄い偶然じゃね。ま、仕方がないじゃろ。事情が事情じゃから。長尾のおじさんはぼやいとったよ。跡取りがおらんで困っとるって。」
「わたしもそれを聞いて引き下がったけど。でも天の采配だとするとなんてことなの。わたし泣きたくなるわよ。お隣さんは無いわよお隣さんは~。」
「あんたさっきも泣いとったじゃろ?一回も二回も一緒じゃけぇ。」
母は配膳しながら、とんでもない理屈でわたしを説き伏せようとする。
元妻との難交渉を終えた長尾さんは、意気揚々と居間に戻ってきた。
「大丈夫でしたか?まさかの元奥さんの実家の隣がここなんです。僕結婚してるとき、帰省すると何度もこの家の前を通っていました。」
「ほうか、不思議なご縁じゃが、あんたは大丈夫け?」
「はい、仕事があるなら死んだ気でやろうとこの島に帰ってきましたから。」
「その意気や良しじゃの?明日は2時に起きて港に行くけえ、ご飯を食べたらわしは寝るけん。佐々木さんはどうするんじゃ?」
「はい、では荷物をまとめて、民宿をチェックアウトしてきます。」
「ほなら、この居間の隣の部屋が空いておるから、そこに荷物をまとめてくれるかの?わしは部屋の掃除をしとくけん。」
「はい。ではこれから宜しくお願い致します。」
僕は新卒の新入社員の面接の時くらい、勢いよく頭を下げ、長尾家をあとにした。
「坂田さん。坂田さん。」
「あれお母さん、長尾のおじさんの声じゃない?」
「あら、どうしたのかしら肉じゃがが失敗作だったかしら?」
母は玄関に向かった、あたしも心配になり玄関に連れ添った。
既におじさんは勝手に家に入り玄関に腰掛け座っていた。
「いや~、なんかすまんのう、わしの我儘で奇妙なご縁が始まりそうじゃ。ご迷惑かけんよう配慮するけん堪忍してや。」
「ええんよ。そんな気使わんでも、うちの家と長尾さんちと居候が二人増えただけじゃ、居候が偉そうなこというなと今しかっとったところじゃ。」
「ち、ちょっと、もう少し優しく言ってよ。あたしだって傷つくわよ。」
「はは、違いない。坂田さんとこのお嬢ちゃんは名前はなんといったかのう?」
「は、はい。佐々…、靖子って言います。」
「お~靖子ちゃんな、お隣さんじゃけえよろしく頼む。では。」
言いたいことだけ言って、立ち去ろうと長尾のおじさんはすくっと立ち、玄関の引き戸に手を掛けたところで動きがピタッと止まった。
「お、いつもすまんのう。相変わらず美味かった。あ、肉じゃがじゃ。まだ一口味見をしただけじゃがの。」
「あ、友康さん、さっきの若者じゃ。あの子はいつから住み込むの?」
「今晩からうちに泊まる。」
「そう、では明日から差し入れは二人分用意するわね。」
おじさんは頭をかき、ニコッとしながら頭を下げた。
「明日から忙しくなるわね。」
母は腕まくりしながらやけに機嫌良くまた居間に向かった。当日は島で取れた魚と肉じゃがに舌鼓をうち、母は終始上機嫌で夜遅くまでたわいない話をした。私は一日限りと決めた上げ膳据え膳の贅沢を味わい床に就いた。
さて、何をしよう。翌朝目覚めると同時に、今日一日何をして良いか分からない事を不思議に思った。時計を見るとまだ6時、台所の気配を探るとどうやらテレビはついているし、母が何かをしている気配がした。居候二日目の朝、母にそろそろ起きなさい。何て言われるのは40目前の女としては、いささかばつが悪い。むくっと上体を起こし、えいやと気合を入れて立ち上がった。少し眩暈はしたが、それも数秒経たずにおさまった。
布団を畳み、上下スエットから取り合えず、下だけでもジーパンに履き替えた。
「おはよう。」
母は味噌汁に入れるであろう長ネギを刻んでいた。
「あら、早い。ご飯までもう少し掛かりそうじゃよ。」
「うん、いいよ。なら食卓の上に配膳の支度をするね。」
「助かる。」
帰省して最初の朝食は特に特別な物が出る訳でなく、味噌汁とご飯、お漬物と昨日の残り物の肉じゃが、それに鯵の干物が出された。流石に漁港が近い。鯵は小ぶりだが、肉厚で脂がのっていた。
「今日はどうするんじゃ?」
調度それを考えている時に母から合いの手が入る。
「う~ん、東京ではインターネットがらみの広告の仕事をしていたし、簡単なホームページなら自分で作れるから、島の特産物を直売出来るような仕組みが作れないかしら?って考えてたの。」
「そんな事は既に呉市の観光協会とか、漁協はやっとらんのじゃろうか?」
「うん、まだ良く分からないけど、昨日パソコンで一通り検索したけど、引っかからなかったのよね。」
「引っかからんという事は、やっていないんやろか?親戚のおじさんが呉市の市役所に勤めとるから、一度相談に行ってみたらどうじゃろうか?」
「え!本当、それなら是非頼むわ。」
「早速電話してみるけん。」
呉市も22万強の人口をほこり、県庁所在地でもないが、立派な都市機能は有しているし、呉市だけをみれば人口も過疎化に向かっている訳ではなかった。今あたしは母にアポイントを取ってもらい、遠縁の親戚を頼りに呉市の市役所から、更に呉市の観光協会の担当窓口を紹介して貰った。あたしは受付で自作した名刺を手渡し、アポイントの担当者に来訪を告げてもらった。
「初めまして、呉市観光協会、広報の伊藤と申します。」
「初めまして、佐々木と申します。本日はお忙しい中、貴重なお時間を割いてくださり、心より感謝申し上げます。」
前職で何度も繰り返したフレーズで、なんだか懐かしかった。
「それで、今日はどういったご用件でしょうか?」
帰省したばかりだが、既に標準語が懐かしい。
「伊藤さんは、広島出身ですか?あ、すみません。わたしは東京が長かったせいか、標準語が染みついてしまって、実は昨日帰省してから島の言葉ばかりで少しだけ戸惑っていたんです。だから伊藤さんの言葉づかいが少しだけ嬉しかったんです。あ、ごめんなさい。今日の要件ですね。実は私は前職が広告代理店で特にネット関連のホームページの企画であったり、広告戦略を練る部署が長かったんです。そこで呉市のホームページや環境協会のホームページを見たりしていたら、改善案が浮かんだので、それでお力になれないかと思い、企画書を持参しました。」
靖子はパワポで急いで作った企画書を手渡した。
「ありがとうございます。では拝見しますね。」
伊藤はA4用紙5枚のパワポをパラパラっと斜め読みしました。
「興味深いですが、佐々木さんにとって、我々一番のウイークポイントはどこだと思いましたか?」
あたしは咳ばらいを一つ挟み話始めた。
「はい、正直申し上げると呉市の環境協会のホームページがあれだけ作りこまれている事に驚いたのが正直なところです。ですが私からの提案は、あそこからもう一歩踏み込めればもっと良いのに。と感じました。」
「踏み込む…。」
「はい、例えばグルメのページ、あそこの各お店のページQR決裁作成機能をつけます。そしてあのページから一切リアルなやり取りなしで宅急便の配送までやりたいんです。それは農作物や漁業も含めて包括的な通販サイトに仕上げます。」
「それが出来れば凄いことですが、それでは農協や漁協の人達の利権を奪う事になりませんか?」
「いえ、農協と漁協の人達にとっても良い話です。それは最終消費者との窓口が新たに出来る事、それにより取引高が増します。更に言えば、取引額も中間問屋を介さず販売出来るので、より単価の取れる顧客とのネットワークが出来ます。エンドユーザーにとっては割安で鮮度が良く、更に生産者の顔が見られる究極のトレーサビリティとも言えます。」
「では割安で安心で、どこの利権も奪わないという事ですね?」
「元々御団体は、非営利団体や一般社団法人が親元でなのあれば、それ程の中間マージンは取らずに運営出来るでしょう?ですがこの取引で、数パーセントのマージンはとって下さい。それでも充分に生産者にとっては利益が出るでしょう。勿論農協、漁協にもマージンはしっかりとってもらってください。いわゆるウインウインという関係の構築が目的になり、持続可能な流通、物流も含めた産業の仕組みを構築するのが目標になります。」
「では若しもそのサイトを作ったとして、どうやって顧客と繋がりますか?」
「私は上蒲刈島で生まれ育ち、大学入学と共に上京し、東京の会社に入社しました。たまたまですが、同郷の元主人と出会い、結婚しました。その元上蒲刈島出身の夫婦の食卓で良く話題になったのが、地元の食材をこっちでも食べたいね。が私達の口癖でした。今朝食べた鯵の干物が東京で食べられたら?と想像すれば、こちらの方が考える以上に大きな大きなニーズがあると考えてください。」
「ほう、では元呉市出身者で上京した人や地方に行ってしまった人がファーストターゲットですね?」
「ご理解が早くて助かります。まさにそうです。そして後は美味しければ勝手に口コミで広がります。つまり元呉市出身者の全てを営業部長として抱えたと想像してください。」
伊藤さんが乗ってきたのが分かった。
「それは心強いですね。分かりました。では根回しに少し時間下さい。ただ市長が頭が柔らかい方なので、多分それ程時間が掛からないと思います。」
「話はここで終わりではありません。観光業、農業、漁協、観光協会のホームページから注文で入るであろう、全ての商品が一堂に会する物流センターを作ります。それで注文が入った場合には例えば、ミカンを10個とタイを一尾、それに本田屋のカステラを一本。それをまとめて一つでパッキングして送る。それで送料を削減します。消費者からすれば少ロットで良い物を買えるのはメリットでしょう。」
「それは良いですね。ミカンであれば一箱もいらないけど、他の物と合わせれば、一箱が埋まります。例えばご注文金額でいくらを超えた場合には送料無料ですとうたえますね。ミカンだけでは無理でもそれ以外の物と合わせれば容易に金額はまとまるでしょう。」
「はい、是非ご検討ください。ページ作成に掛かる費用はあたしが島で暮らせれば充分なので、最低限で結構です。」
「恐縮です。こちらとしても費用は抑えるに越したことはないので…。分かりました。では早々に協議の上でご連絡します。」
「あ、それと予算が余れば食べ物屋さんをあれほど充実させているのであれば、あの各ページにレビューを書けるようにするともっと良いです。それは引っ越しして来られた方、更に観光客がターゲットになります。それをガイドブックに広告を出して、URLをQRコードで飛べるようにして下さい。その時にレビューが欲しいのです。勿論各生産物にもレビューが書けるようにします。その積み重ねで作物の品質が改善します。どんな商品も先ずは商品力がある事が前提になりますから。」
「何から何まで申し訳ありません。諸々承知しました。本日はありがとうございました。」
伊藤さんは深々と頭を下げてお礼を言ってくれた。あたしはまだ言い残した事がないかを探して脳内を巡らせていた。
「いいえ、故郷の発展や振興に多少でも力になれるのなら、こんなに嬉しい事はありません。どうか前向きにご検討くださいませ。」
あたしは言いたいことを全て掃き出した事でスッキリした気分で観光協会を後にした。
「佐々木君、今帰ったよ。今日は何かしたんじゃろうか?」
「おかえりなさい。はい、今日は住民票を移してきました。こちらでの暮らしを本腰を入れるつもりです。」
「ほうか、では明日から実際に船に乗ってみるか?」
「え?いいんですか?はい、喜んで。」
「漁師になりたいくらいじゃ、船酔いはせんだろうね?」
「はい、今まで人生で乗り物酔いをした事がありません。」
「それは頼もしい。明日は深夜の2時にここを出る。寝られるのなら早めに寝るといい。佐々木さんのサイズに合わせて防水のツナギと長靴、ゴム手袋を用意しておいた。洗濯は自分で出来るじゃろ?」
「はい。何から何までありがとうございます。」
勿論、夕方から眠れる筈もなく、僕は布団の中で明日の初めての漁にむけて気分は多いに高揚していた。深夜1時30にタイマーをセットし、眠ったような眠っていないような浅い眠りの後、身支度を整えた。
(よ~しやるぞ。)
僕は引き戸を開けて、思い切り背伸びをした。
「気合い入っとるね。長靴のサイズは大丈夫じゃったかの?車で港まで行くよ。」
「はい!といつもの3割増しで返事をした。
まだ深夜、その真っただ中に僕達は活動を始めた。僕は紺色のゴム製のつなぎと長靴、それに手袋と防寒、防水対策はバッチリ整え、僕は軽トラックの助手席に乗った。
車で5分もいけば蒲刈漁港だった。車を停めて先ずは製氷機の自販機に向かい、二籠分の氷を一人一つずつ持って船着き場に向かった。
「この船がわしの船じゃが、それ程古くもないからまだまだ使える筈じゃ。ささ、どうぞどうぞ。」
どうぞと言われても、船と船着き場の間は50㎝くらい隙間が空いていた。橋渡し用の板でも引くのかと思っていた僕は正直面食らってしまったが、ここはビビッている事を悟られまいとエイと船に飛び移った。氷の籠ごと倒れそうになったが、何とか堪えた。長尾さんは船と桟橋を繋いでいたロープを解き船にロープを投げ入れた。
「今日からしばらくは、わしのやっとる事をただ見ていてくれ。これから漁場に向かうが、場所も覚えなくてはいかんが、先ずは一日の流れを見ていてくれ。」
「はい!!」
長尾さんは一通りの確認作業を済ませ、船室に向かいエンジンを掛けた。軽い振動と共にディーゼル特有の臭いが瞬時に広がった。船室で長尾さんが僕を手招きしていた。船内は意外に広かった。
「これから漁場までは1時間も経たんが、今日は少しだけ波が高い。椅子に座ってわしのやっている事を見ていてくれ。」
僕は船長の後ろに二座ある簡易的な固定されている椅子に座った。長尾さんの言う通り、湾を出てからしばらくすると波が高く、時折船内にざぶ~んと波しぶきと共に海水が入ってきた。
「こ、これくらい揺れるのは当たり前ですか?」
エンジンの音でかなり騒々しい船内で大きめの声で聞いてみたが、それでも足りないらしい。ほぼ怒鳴っているくらいのボリュームでもう一度聞いてみた。
「おお、そうじゃな、これくらいは可愛いほうじゃ。酔ったか?」
「いえ、大丈夫です。」
「ほうか、大したもんじゃ。最初は皆吐くもんじゃ。」
その日の漁は大漁だったのか、寂しい釣果だったのかは不明だが、何しろ船室の中は獲れた魚でかなり満たされたし、氷も調度よく使いきった。港に帰ってくると長尾さんは手際よく船をビットというらしいが、桟橋から生えている杭の様な物に結んだ。
「今日は、お疲れさんじゃ、じゃがあんたはこれから修行じゃね。今から三つ程ビットと船を繋ぐロープの結び方を教えるから、先ずはその二つを手際よく出来る様になってくれ。」
それから長尾さんは、もやい結びと巻き結びを教えてくれた。長尾さんがやると簡単そうだが、僕がやるとすんごくぎこちなかった。それから小一時間、練習を続けていたが、その間長尾さんは漁師仲間となにやら話をしていた。取れた魚は市場の人なのか、車に乗せ換え運んでいった。
その後一通り長尾さんの知り合いの漁師に紹介された。正直名前と顔が一致するのとロープの巻き方を覚えるのとどちらが早いかというくらい大変な作業だった。
「佐々木さん、そろそろ帰って飯にするかの?」
もう日も昇り、僕は船と桟橋を飛んだり跳ねたりしながら行きかい結び方を練習した。多少は汗ばみ、少しは早くなってきた頃だ。
「は、はい。もう少し練習したい気もしますが…。」
「はは、これから長いのだから焦らずな。」
何をした訳でもないが、その日は寝不足もあり、今日獲れた魚を刺身と煮物で頂き満たされた。長尾さんはお酒を飲み始めたが、僕は一杯だけ頂き、その日はすぐに寝てしまった。
「あんた、もうそろそろ寝なさい。」
「は~い。」
せわしなくキーをタイプしている。納期は意外とキツイ事を言われた。結局あれから二週間経ってあたしのプレゼンは採用され、契約時と納品時の二回に分けて報酬を貰える事になった。一部東京のつてを頼り、外注を出しても自分の取り分は残るような比較的楽な予算組だった。民間より行政や一般社団法人の方が美味しいと以前によく同僚と話をしていたが、あたしの担当は民間企業ばかりだったので、本当にそうだとは知らなかった。取り合えずは当面の生活にはこれで困らないだろう。
「よし、ひと段落ついた。」
便利な物で、先方から発注書を頂き、その後は伊藤さんとメールでのやり取りで要件は済み、今は毎日缶詰だった。お蔭で異例のお隣さんとは顔を合わせる事もなくやり過ごしている。もしかしたら東京に逃げ帰っているかもしれない。そんな奴だ、あいつは。
「友、ロープ捌きは完璧じゃ。ようやったの。」
「え!?本当ですか?いつも残って練習したかいがありました。」
船に乗り始めておよそ二週間、今では船長の後ろに座らずに船長の横で、鳥の群れがいないかとか、魚探(魚群探知機)のチェックくらいは出来るようになった。船長も最初は一人の方が楽だときっと感じていたと思うけど、今では多少楽にしてあげてるかな?と自負も出てきた。そこで先ほどの褒め言葉だ。船長は人の使い方が上手いものだと感心した。僕が教師だった頃、ああやってもう少し生徒をほめてあげればもっと伸びる子もきっといたのだと今更少しだけ後悔した。
家に帰ると今日は僕が夕食を作る番だった。三枚でも二枚でも魚を開くのは問題ないぜと軽口を叩くと、まだ骨にこんなに身がついとると差を見せつけられた。
「じゃが、味付けはわしには出来ん味じゃ。友と暮らしてからは何か食卓が豊かじゃの。」
何日目か忘れたが、長尾さんは僕を友と端折って呼び捨てに呼んでくれるようになった。それは慌ただしい船内ではコンパクトにまとめるのは必然だったし、僕は船では船長、家ではおじさんにそれぞれ呼称が変わっていた。そして僕はそれがなんだか嬉しかった。家族が増えたみたいだと思ったのだ。そしておじさんも船長と呼ばれると誇らしげだった。
「久々に飲みに行くか、友。」
明日はお休み。海が時化ているそうだ。
「は、はい。喜んでおともさせて頂きます。」
歩いて10分の漁港の近くに行きつけのスナックがあるらしい。
僕らは歩いて向かった。
「友、二週間経ったが、どうだ。少しはこの暮らしになれたか?」
「はい、慣れたというより、楽しんでます。おじさんが本当に良くしてくれて、ありがとうございます。」
僕はペコリと頭を下げた。
「助かっているのはこちらの方じゃ、ただ漁師はわしは好きじゃ、それでも都会のひとには辛かろうとおもっとったところじゃ。」
「いえ、この二週間で船酔いも無いし、きっと性に合っているんだと思います。」
新地での再スタートしている僕の心境を察して、気配りしてくれるこの親方の優しさにどれだけ助けられたか、僕は言葉にするのもわざとらしいと物怖じしてしまって言えないが、おじさんにはもっともっと感謝の意をつげたい思いで一杯だった。それからしばらく二人は黙って歩き目的のスナックに着いた。
「さ、入れ。」
おじさんは扉を開けて中へ入れてくれた。スナック 千里(ちさと)。この島にしちゃモダンだな、と思っていたら、やけにキレイなママがカウンターの中からうちのボスに挨拶をしてきた。明日は時化ているので、漁師の仲間も既に2.3人カウンターに掛けていた。おじさんは仲間に「よっ」と挨拶をしていつもの席らしい場所に陣取り、僕を隣に座らせた。
「初めまして、ちさとです。」
「ああ。ママ、今度うちの船に乗ってくれる事になった佐々木君じゃ、これからよろしゅう頼む。」
「は~い、佐々木さんよろしく。」
「は、はい。よろしくお願い致します。」
僕は少しだけ顔を赤らめておしぼりを受けとりながら挨拶をした。
「友な、ママは東京生まれで東京育ち、島の言葉一つ覚えんのじゃ。困ったもんじゃろ?だが別嬪じゃ。」
「あ~ら、嫌だ。わたしだって使えますよ~じゃ。」
僕はあまりにもぎこちない使い方に「プッ」と噴いた。
「ママ、年も近いし、うちの友はどうじゃ?一人は寂しかろう?」
「あら、それは嬉しい。佐々木さん、友ってお名前なの?」
「は、はい。友康っていいます。」
「いいお名前だこと、島の方じゃないのね。標準語しゃべっていらっしゃる。」
「あ、ち、違います。僕は生まれも育ちも島で、10年程東京で暮らしていました。U-ターン組です。離婚を機会に島に帰ってきました。」
「あら、バツイチね、バツイチはもてるって聞くから、私の出番はなさそうですね。」
ママはおどけてペロっと舌をだした。そしてそれがとてつもなく可愛かった。
「友、酒は何呑む?」
「は、はい。ビールでお願いします。」
「ママ、わしはいつもの、友には生をやってくれ。」
ママは、は~いと言いながらカウンターの後ろにある棚から長尾と書かれたウイスキー瓶を取り出し、ロックを作って手渡し、すぐに僕の生もサーバーから注いでくれた。
「ママは呑まんか?まだ時間は早いが。」
「え、頂けるの?勿論頂くわよ。」
と言って、ママはノースリーブなのに、腕まくりのフリをした。グラスが揃って、乾杯をした。僕はおじさんに促され、席から立ちあがり、店の皆に一言、宜しくお願い致します。と挨拶をしてグラスをぶつけあった。その後グラスの半分程までくいっと喉に流し込んだ。
二、三杯飲み干し、少し酔いも回ると僕はカラオケを一曲歌えと周りに催促され、いつもの十八番(オハコ)をママに入れてもらった。調度一番のサビに差し掛かった時にスナックの扉が開いた。少し冷たい外気の風と共にそれは現れた。
「ママ~、お酒じゃないんだけど、いつものカレーはあるかね?」
と冷気と共に出現した二人組のそれは、スナックでカレーはあるか?と聞く。
「あ、勿論。今日もありますよ。奥のテーブル席どうぞ。二人分でいいかしら?」
「そうしてくれる。」
とその二人組は通された。僕は歌うのを止めようか迷ったがそのまま歌い続けた。
「あ~!!ち、ちょっとお母さん、あれがいる。あれが。」
その二人組の一人は僕をあれ呼ばわりしているのが微かに聞き取れた。
(靖子~。ここでも会うのか…。)
その後は気が動転しカラオケをどうやって謡ったのかも覚えていないが、何とか最後まで謡いきり、僕は皆に一例し、カウンター席に戻った。それから何を話したのかちっとも覚えていないが、取り合えずママの名前と僕より年が一回り違って同じ干支だという事だけ覚えてその日は終わった。
それから、船長は頻繁に僕をスナック 千里に連れて来てくれた。漁師という仕事は、天気に左右されるのは理解しているつもりだったが、こんなに休みが多いと僕の給料を払うのに船長は大変だろうな~。と雇われ船員としては余計なお世話かもしれない心配をしていた。千里では僕は今日は僕が出しますと言っても船長は一銭も受け取ってくれなかった。
「あら、いらっしゃい。今日は一人?」
船長は今日は体調が優れないと、スナック通いは自粛すると言っていた。
「うん、船長は今日はお休みだって。僕は元気バリバリだからママに会いに来たよ。」
っと僕は敢えて船長の体調不良には触れなかった。
「あら、嬉しい。今日はまだ早いから友康さんだけの貸し切りよ。」
スナックの店内はいつもの賑わいは影を潜め、僕とママだけで、少しだけ肌寒く感じた。
「一人で飲むのもなんだから、ママも呑んでよ。」
「え?いいの~?それでは頂くわ。友康さんはビールでいいのね?」
「うん、そうして。」
僕らは二人っきりの店内でチンと音を立てて乾杯した。僕は一息に中生のグラスのビールを飲み干した。
「ご、ごめん、ママ、もう一杯くれる?」
「は~い、なんで謝るのよ。水臭い。」
っとママは今手にしているグラスを一度カウンターに置き、僕のビールをサーバーから注いでくれた。僕はその後も三杯目まではいいペースでビールを飲み、それからは勝手に呑んでも良いと言われている船長のウイスキーのボトルを水割りで呑み始めた。勿論ママにもお薦めし、ママも結構なピッチで胃袋に流し込んでいた。僕の気分が良くなった頃にはママも少しだけ冗舌になり、僕らは自然と会話も弾んだ。ママとは標準語で話せる事もあり、違和感なく会話出来たし、何より気を使わなくて良いので、靖子とは大違い、いやここで靖子と比較するのもどうかと思ったので、瞬時にかき消した。
今日は本当に珍しく誰も入ってこない日だった。自然と僕らはお互いのプライベートな話にも踏み込んでいった。
「ママは男に興味ないの?」
「え?やだ~、勿論興味ありありよ。恋愛対象は男。それは言いきっちゃうわ。」
「このお店を開いて何年くらい?」僕はグラスを片手に質問魔になっていた。
「確か5年くらいは経っていると思うけど…。」
「いい人は居た?」
「え?お客さんで?そうね~。私がいいなと思う人はいたけど、既婚者だったりして、対象にならなかったり、こう見えて意外とモラルとか重んじるタイプだったりして。結局良い仲にはなれず終いね。」
ママは自分がどう見られていると思っているのだろう?少なくとも僕は身持ちが硬く、隙が無い女性に見えていた。
「ママは、綺麗だし、引く手あまたかと思ったよ。いや~、僕は恋愛経験が少なくて突然前の結婚生活だったし、色々戸惑ったから、女性を見る目が無いんだと思うよ。」
「え?奥さん、靖子さんでしょ?あ、元ね、靖子さん器量が良くて、シャキシャキしてて、綺麗な方、同じ女性として憧れちゃうな~。」
「ち、違うよ。別れた人を悪く言うのは品が無いけど、でも僕は日々びくびくしてたな~。地雷を踏まないように。」
ママはケラケラと笑っていたが、また一口ウイスキーを口に入れると、少しだけ真顔になった。
「でも、女からすると男は子供だから、だからちゃんと見張ってないと悪さすると思っちゃうのよ。だからつい口うるさくなるのよね~。」
「確かに、僕はだらしないし、いつも靖、元の奥さんに頼っていたからな~。」
「そういうところ私は可愛いと思うけどね。」と彼女は微笑んだ。
僕はその笑顔にぞくっと感じながら、改めてママは綺麗だな~っと思った。ひょっとしたら叶わぬ恋と知りながら既にママに惚れているのかもな~。なんて妄想を膨らましながら程々に酔ったところで船長の待つ家に20時を過ぎる頃には多少足をふらつかせながら帰った。
私は呉市の阪急ホテルのバーにいた。お相手はまさかの呉市の観光局の伊藤さん、先日無事ホームページを納品し、なんと保守契約も月5万で契約してくれた。先日納品したホームページの代金と併せれば、当分の生活費は賄えそうだ。伊藤さんとは、LINEを交換し、ホームページの仕様についてチャットしていたが、いつからかプライベートな話もするようになったし、控えめで、実直な伊藤さんは、私の心を癒してくれた。
「島の暮らしには慣れましたか?」
と広島の名産らしい比婆牛のステーキにナイフを入れながら伊藤さんは慣れないお店で緊張している私に話をふってくれた。このお店は何しろ肉質が良いのと肉自体の火入れの塩梅が絶妙だというフレコミで伊藤さんも初めていらしたようだが、先ほどから私も伊藤さんも舌鼓をうち肉好きな私もご満悦だった。
「いいえ~、まだまだです。ホームページを仕上げるまではほぼほぼ缶詰でしたし、ただ同居している母の手料理が何しろ懐かしくて、慣れ親しんだ地元の食材は私にとっては何より癒しでした。」
「そうですか~、このお店はお口に合いますか?」
「も、勿論です。私なんかの舌には勿体ないくらいで、ただただ感動しています。」
これは本心で、グルメとは決して言えない物を口に入れてきた半生だったので、今口にしている物がどの程度上質なのかは正確には分からなかったが、先ほどチラッと見たメニューの価格はそれなりだったので、東京で食べればもっとするんだろうな~、なんて下世話な事を考えていた。
「それは良かった。東京のかたにとっては何も珍しくないし、何の感動もないかと思っていましたから、冷や冷やしていました。」
と伊藤さんは笑ったが、その笑顔は品よくチャーミングだった。その夜は当たり前の様にホテルに泊まり私達はそういった関係になった。大人になれば、始まりの儀式見たいなものはなく、普通に私達は男と女の関係になったのだ。私はただ幸せを感じた、筈だったが、何か心に引っかかるとげの様な物を感じたが、気のせいだと思いなおした。
「友、今日は多少時化ているが、もう大丈夫だな?」
僕を一人前とは言わないまでも戦力だと考えてくれるだと肌で感じ嬉しくなった。
「はい、任せてください。」
船長は何とも言えない優しい笑顔で微笑んだ。その日は低気圧のせいか確かに波は高かったが、別に始めて体験するうねりでも無かったので、いつもの船長サポート業務に集中した。不思議と波が来ても体がぶれずに移動出来るようになっていた。人の慣れって能力は本当に凄いなと感心する。っと気を抜いたつもりは無かったが、ふっと気を抜いたらしい。僕は高波が迫っている事に気づかず、手すりをホールドせずにいた。その時氷を積んでいたコンテナが滑って僕に襲い掛かってきた。
気付くと僕は船ではなく別の場所にいた。何とも言えない心地よい音楽が流れる場所だった。
(え、僕は船にいた筈だけど…。)
僕は地面に横たわっていたようだった。ふと上半身を起こすと少し先に川が流れているのが見えた。川の両岸には一面名も知らぬが綺麗な花が咲き誇っていた。僕は何しろ混乱した。僕は漁師で今日は時化ていたが、船に乗っていた筈だ。島の近くにこんな川は無かった。
(ま、まさか…。)
気付くと、僕の横に一人の白いローブを身に纏い杖を持っているお爺さんが僕を見下ろし立っていた。顔立ちはおおよそ東洋人とは思えないくらいに目鼻立ちはしっかりとした顔だが、多少日に焼けて浅黒い肌の色だった。
「こ、こんにちは…。」
取り合えず日本語が通ずるのかも分からないが声を掛けてみた。
「お前はここに来るのはまだ早いぞ。」
「え?ここって。」僕は心臓が早鐘をうつように心拍数が上がるのを感じた。座ったままも失礼かと思いすくっと立った。
「この川を渡れば死の国、寿命を全うすればこの川を渡す船が出る。だがお前はこちらで約束した事は何も叶えずここに来た。」見下ろしたまま、その男は僕にとうとうと話しかけた。
「ぼ、僕は死んだ訳ではないのですね。」と胸をなでおろした。
「お前は船から落ちて溺れたのだ。今懸命に救命治療がされているところだ。本来はお前に言うべきではないが、あまりにも不憫に思ったので今回は特別に教えよう。お前は佐々木康子と結婚したな。」
「はい、最近別れましたけど。」
「その過ちを何度繰り返していると思う。」
すると僕は僕らしき人、靖子らしい気配の人が何度も繰り返し結ばれ、そして何度も最後まで添い遂げる事が出来ずに別れていた風景がさっと眼前現れ、まるで映画のスクリーンの様に何度も生まれ変わり、その度に僕は靖子と結婚していたことが理解、いや感覚的に瞬時に脳内にインプットされた。その転生の歴史の中で、時に僕が男ではなく女であったりもした。そしてこちらの世界に戻っては何度も今度こそ最後までと約束している様が時間を掛けず瞬時に走馬灯のように見えたのだ。
「わかったか?」
「はい、僕は靖子と何度も繰り返し繰り返し夫婦を経験したんですね。」
「そうだ、ある意味ゲームだな。お前たちは夫婦で最後まで添い遂げるゲームをしている。それも無数にな。にもかかわらず今回も別れたな。それを知ってお前はどう思う?」
「はい、悔しく思います。靖子とそんな深い絆を持っていたなんて~。」
「どうだ?元の世界に戻ったら?」
「はい、靖子には今回の経験を伝えてよりを戻さないか?と聞いてみたいと思いました。」
男は一切表情を変えずにきりだした。
「それはルール違反なのだ。こちらの世界でのこの経験をお前は一切口にすることも、匂わす事もしてはならん。若しもそれを口にすれば強制的にこの世界に引き戻される。つまりリセットだ。そして妻が寿命を全うするのを待って、また再度生まれ変わるのだ。同じ目的を持ってな。リセットを希望するか?」
「いえ、そのルールは承知しましたし、悔しいです。何にも反省していないんですね。生まれ変わりがある何て思いもしなかったし、靖子との腐れ縁を終わらせないと!って思いました。」
「終わらんよ。奥さんとのご縁はな。お二人はそういう魂の奥底で繋がる深い関係があるのだ。だから目的を一つクリアしないと次の目標設定が出来ないゲームだと思えば良い。それまでは延々と何回も何回も同じ目的をもって生まれ変わるし、生まれ変わりを繰り返してきたのだ。それは分かるな?」
「はい、先ほどそれを確認しました。不思議な体験です。」
「そろそろ時間が来るようだ。お前が奥さんと添い遂げるも、また同じことを繰り返すのも自由だ。ただ私はお前に情報を与えたに過ぎない。」
気づけば僕は天井を見上げる病院のベッドに横たわっている状態で目を開いた。周りには看護師さんと、そしてすぐそばに船長と、そして千里のママ、更に靖子と靖子のお母さんまで僕のベッドを囲んでいた。
「友、帰ってきたか!良かった。」
船長が心配しているのが伝わった。そして僕は申し訳なく思った。
「船長、すみません、僕が不甲斐ないばかりに…。」
「いいんじゃ、これも帰って来てくれれば良い経験じゃ。」
病室内は異様な雰囲気で、義理の元母は病室の入り口で心配そうに離れて見守り、千里のママは今にも泣き出しそうで、そして靖子は僕の無事を確認すると、ふんと鼻を鳴らして病室から出ていった。
「良かった~、友康さん。本当に心配したんだから~。」
「ママ、ごめんね。でも泣かないでよ。帰ってきたから。」
皆は僕があの世の入り口に行ったなんて知らないし、どこから帰って来た?というお話だが、僕は生々しく白いローブを纏った叔父さんとのやり取りを鮮明に記憶していた。そして心配してくれるママを有難く感じながらも僕の頭の中はどうやって靖子とのよりを戻すか、それで一杯だった。
「行くよ。お母さん。」
私はいつまでも病室の入り口で心配そうに元ダンの様子を見守っている母を怒鳴りつけた。
「あ~、はいはい。今行くけん。」
母は名残惜しそうに病室をあとにして、私の方へ近づいてきた。
「なんで別れた旦那の事を心配しなくちゃいけないのよ。」
「あんたね、別れたっていうても、元々紙切れだけの話じゃろ?そんなにきっぱり友康さんを他人とはお母さん思えんよ。心配もそりゃするじゃろ?」
「はいはい、分かったわよ。」とわたしは納得したふりをしたが、本心は余計な心配掛けんじゃね~よが本音だった。
(それにしても千里のママの心配しようが普通じゃなかったわね。あの二人出来てるのかしら?ま、私も次の道に伊藤さんと進んでいるのだから、人のこと構ってる場合じゃないわね。)
幸いにも、僕はかなりの海水を呑んだらしいが、特に体にダメージもなく、翌日退院し、その二日後には船の業務に戻った。船長に退院翌日に業務に戻りたいと言うと一日
続く…。(毎日少しずつ加筆しています。by 銃流 勉三 2021/1/16)